◆SS/スヴェン&ベクテル◆ ブルックナー:第九

「あ、おかえり!今日の調子はどう?」

本番直前のリハーサルを終えて、楽屋へ喉を潤しに戻ったコンダクターを迎えたのは、やや間延びして緊張感のない、「マネージャー兼現友人、元ストーカー」たる複雑な経緯を持つ男の声だった。

「はい、お水。大丈夫?今日は顔怖いって泣かれてない?」

冗談か嫌味か判断に困りそうな言葉だが、この線の細い、一見人懐こい見た目ながら一癖も二癖もある風変わりな彼の友人ーベクテルが恐らく、大真面目に心配して言っていると言うことを今の彼ースヴェンは知っている。

「ありがとう、大丈夫。特に、そこまで怖い顔をしてる気はないんだけどね」

客観的に見て端正ながらひどく険のある表情とは裏腹に、彼が応じる声は暖かく穏やかなもの。
水を受け取り、唇を湿らす。
ー居並ぶオーケストラの端まで指示を通さねばならない立場としては存外、喉の渇きには悩まされる。集中を欠かない為にもあまり多くは飲めず、許されるのはほんの一口程度の補水だったが。

「前一回あったじゃない、泣かせたこと!あれは驚いたけど納得もしたなー、スヴェンほんとに黙ってると目が険しいんだよね、特に笑うと致命的!普通に子供とか泣くよね?まぁ、私はスヴェンの怖い笑顔は好きだけど」

本番前とは思えない緊張感のない話題。
一般常識に照らせば間違いなく失礼間違いなしのこんな言葉を継がれ、しかし特段意に介した風もなく言われたスヴェンは鷹揚に応じる。

「まぁ、そこはー慣れて貰うしかないな。いい加減本番になってまだ私の表情に驚く団員は居ないと願っているよ、もう四日も連続で顔を合わせてはいるんだし」

「いやでもさぁ、それでも目を合わせたり注意受けたら今だってきっと怖いってー。私も時々無意味に謝りたくなる時あるくらいだし」

例えるなら、閉じた貝の口を開け無理やりお湯を流し込むような遠慮のないワンマンスタイルでベクテルは受ける。
彼には、礼と非礼の差がわからない。まして人の心を会話で快くしよう、などと言う意識はかけらも持てない性分らしい。

出会ってしばらくの間は勿論、スヴェンもこんなベクテルの性分など知り得ようもなく。
彼のこの空気など読む気はなく気遣いなど毛筋ほども知らない物言いに、当然大きな戸惑いと訝しみの時期を過ごした。
怪しく、失礼で、遠慮がない割に、なぜか自信はないらしく態度はネガティヴ。
数週間の一方的な付きまといーもといファンコールを経て、スヴェンは彼なりの洞察力と寛容さでこの男の癖を悟る。
ーー彼には気遣いはないが、どうやら好意はあるらしい。熱烈に絡んでくるその振る舞いは一応、彼曰くの「ファン」と言う枠にギリギリ入っていなくもない。敬意のなさは気になるものの。
ーー親愛の情はあるが、示し方が根本的に間違っている。どうやら親しみを込めてあけすけに正直な物言いをするのが彼にとっての「親愛」らしい。自分が言われると一気に悲痛な表情になりこの世の終わりのように悲しむ割に、相手の気持ちと言うものを考えようとはカケラも発想出来ないらしい。これはもう、性格なのか。

ーーそう、この男には悪気はないのだ、…と結論を下し接するようにして以来、二人の会話はずっとこんな調子ー不躾なベクテルの弁をスヴェンが受け流すような形ーで続いていた。
時折常識人代表のスヴェンの妻が会話に耐えかねベクテルを叱ることはあるが、今となっては特に、二人の間に耐えるような空気はなく、気まずいような気配もない。
ひとえに、スヴェンの人柄によって。

今もスヴェンは聞いているようで全て受け入れあるいは聞き流し、たまに苦笑し、脳内では本番での音楽に対しての集中を高めることにのみ意識を割いている。
どちらがコンダクターでどちらがマネージャーか、会話だけでは推し量れない程度にズレた関係ながら、二人の仲は奇妙な一定の親密さをもって保たれているのだった。

「そろそろ時間かな、行ってらっしゃい!いい音聞かせてねー、まぁ私は多分わかんないけど」

完全に一言多いベクテルの声。
そんな声にやはり気を悪くする風でもなくスヴェンは曖昧にうなづくと、口の端を上げたベクテル曰くの「怖い笑い」で応じて舞台袖への扉を開けた。
目撃した第三者がもしあれば、「マネージャーを睨みつけ脅していた」と見られかねないような表情で。

ーー指揮台に白い長身が立つ。
それだけで、期待を含んだ独特の緊張感が舞台の上ーーいや、客席を含んだ会場全体を支配した。
どんなコンサートホール、どんな大舞台であっても「完全な静寂」と言うものがないのは多くの演奏家を悩ませるところだ。だが、少なくとも今この瞬間、この空間は完全な静謐で、第一音を待ち望む意識に包まれる。
集中した指揮者の鋭い視線は、奏者を射すくめるかのよう。

「いい演奏になるかな。ー全力出せるようには、願ってるからね」

どこか上から目線のやまないマネージャーは、大舞台に立つ気のいい指揮者の、冷酷無比にしか見えない端正な横顔を眺め、呟いた。

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