Joker

「Joker」

 その「ゲーム」のルールは単純なものだった。

 だからこそ彼は、二つ返事でその申し出を受けたのだから。

 紺紫の髪に金色の目。
 見る者に微かに微笑むような、微妙な表情をたたえた目元と、人とは異なる尖った耳介。
 これは『悪魔バグスペイア』たる青の館司書を勤めるヒューレットの姿だ。

 少々口の悪い向きならば彼のことを、「真剣みが足りない顔」とでも評するのではなかろうか?
 そのくらい、普段の彼はいいかげんな―柔和な表情を周囲に印象付けている。

 そんな彼が今、真剣に引き締められた表情でそこにいる。

 ――楽勝。

 そんな思いが確かに、あった。……しかし。

「――聞いてね―よ……」

 そんな彼を絶句させる程に、「ゲーム」の相手……
 知神にして水の神たるエンキ=アンリルの「力」は強大で、その叡智は謀りしれない。

 舐めてかかった勝負のツケか、まんまと今彼は『苦戦中』なのだった。
 スケールの桁違いに大きい、『神々のチェスゲーム』に。

 彼の立つ床は一見、一面茶色。
 
 よく発酵させた紅茶のような甘い色だが、鏡のように傷もなく、
 またタイルや板のような床材を継いだ様子もない。
 
 彼の履き慣れた革の靴にも少々滑りやすく、
 何より遥かに見上げる天上からの光を反射して、壁面の位置がつかみにくい。
 歩くのさえも事なその空間で、しかし今彼は全力疾走を強いられていた。

「!」

 彼が何故走っているかといえば、逃げているからであり、
 何から逃げているかといえば、背後から追ってくる巨大な馬の形の像からだった。
 「巨大な馬」ではない。
 「巨大な馬の形の像」である。

 何でできているものか、その表は艶やかな床と同じ色をしている。
 いななく姿もそのままに、彫り込まれた姿は自然で迫力に満ちたもの。
 巨大な円柱型の土台の上に乗ったそれは躍動感に満ちていて、
 こんな時でさえなかったら美術品には疎い彼もそれなりの着目をしたかもしれない。

 ――だが。

 その像はかれの頭上からまるで――書類に判を押す時のハンコさながらに、
 彼を押しつぶさんという勢いで落下してくる。
 とても美術観賞の余裕と行かないのは当然だろう。

「だーー!」

 気合を入れるため一息大きく声を出した時、彼の視線の先に一面の茶色と違う色が見えてきた。
 あまりの距離に霞んで見える地平に、象牙色の白い床。

 –頭上に影が射したのは、馬が更に落下してきたせいだろうか?
 上を仰いで眺めているような余裕はとてもない。
 彼はあえて、頭上を確認しないままで走った。

 足元に茶色と象牙色のくっきりとした境界を踏み越え、
 視界に映る床が完全に白くなったのを確認し、
 やっと彼は–肩で息を整えながら、かすかに背後を振り返る。

 そこには。
 広大だった茶色い床の上を占拠するように、そして先刻まで彼がいた空間を否定するように。
 巨大な馬が、いなないていた。
 石造りの肌、勇猛な馬の姿の、……チェスの駒。

「――今のは反則だな、ヒューレット」

 彼の隣に、青い髪色の大柄な男が大剣を携えた姿で忽然と姿を現した。

 引き締まった体躯を誇示するように、肌を晒したままの鍛えぬかれた半身。
 その姿はともすると、ただの体格のいい好青年にも見えるだろう。
 …しかし、彼が持つ剣はその腕に収めるにはあまりに強大で、奇妙にも刃の表に滴る水を湛えている。

 青年はその剣を力任せに白い艶やかな床に突き刺し、
 ヒューレットの顔をやや冷ややかに見える青い目で睨みつけた。

「私の駒が動いている中で「キング」であるお前が動くのは、どう考えても反則だ。
 今のは明らかにチェックメイトだった」

 なかなか呼吸が追いつかず、肩で息を弾ませたままのヒューレットを見てのこの発言。
 なるほど、普通の人間ではないのかもしれない。

 事実、彼こそは水神知神兼ね揃えた叡智の存在、エンキ=アンリルその人だった。

 筋肉質な外見、前髪は目にかかる程度に長く微かな流れを生んでいるが、
 髪全体は首の上のラインまでで短めに揃えられている。
 
 髪色と同じ青い目の奥には、落ち着いて静謐な光。
 目許こそきついものの、顔立ち全体から受ける印象はどちらかというと柔和、だろうか。
 彼は至って平然とした表情でヒューレットへ向けて言葉を継いだ。

「攻めると同時に逃げ回るキングを仕留めるとしたら、こちらも駒を動かしつづけるしかない。
 …フェイズは守るべきだ」

 ヒューレットは呼吸の苦しさも手伝って大きく表情を歪め、
 噛み付くような表情でエンキ神へと不平を唱えた。

「だーかーらー!!!! 俺は俺以外の駒なんか用意されても動かし様がないんだっつうの!」

「ほう?それでも勝負を受けるといったのはお前だったはずだがな」

 面白げに悪魔をからかう様は、流石に神たるものの余裕、といったところなのか。

「確かに言った。言ったっすけどね?」

 幾分おどけた口調で紛らわせてはいるが、彼の目はそれこそ真剣だった。

「俺にはこのチェス版全体が見渡せねぇんだって!!駒の見えないチェスゲームなんてないッスよ?
 つうかそもそも潰されるし!」

 まさに命のかかった状況だっただけに、その真剣みも当然か。

「それは知っているが。――しつこいようだが、勝負を受けたのはお前だ」

 水神エンキはねめつけていた顔を楽しげな表情へと変え、床に刺した大剣の柄に重々しく手をかける。

「……勝つ自信は、あるという事だろう?
 確かに逃げ回られていては、俺も結局チェックメイトを宣言できんしな」

 ――神というのは、得てして性格が悪い。
 悪魔たるヒューレットの、それが実感だった。
 この意固地な神に不平だけを唱えても何にもならないだろう。

「つうか、俺がコチョコチョ逃げ回りつづけてて
 永遠に勝負がつかない、っつう不毛なことになるんすよね?このままじゃ」

「そうなるだろうな。――なるほど、バグスペイア。
 おまえの言った「勝利」というのは「決して負けない」という意味の皮肉だったか」

 神の厭味には慣れたものだ。
 ヒューレットは「ご機嫌メーター」である耳をやや倒しつつも、彼は至って普通に――
 むしろ表情の変化を押し隠すような巧みさで言葉を継いだ。

「要するに、お互い今のルールじゃ不満ってことッスよね?」

「そうとも言えるな。私はフェアな勝負をしたい」

「じゃぁさ。……ルール、改定」

 そうして彼が取り出したのは、一枚の手の中に収まる小さなカードだった。

 彼の取り出したカードを見、エンキは再び楽しげな笑みを浮かべる。

「面白い。-神に今度は、カードゲームを仕掛ける気か?」

「まぁ、そういうトコなんスけどね、飽くまでチェスとの合成っつうか」

 彼がそのカードを床におくと、描かれていた丸い模様が溶け出して床ににじみ、
 円を描いて魔方陣となる。

 その中央から出てきたものは、おもちゃじみた木馬の騎士。

 小さなその騎士は馬の手綱を引くと、一人前にランスを構え、
 彼から見れば遥かそびえて見えるであろうエンキ神の足元へ向けてチャージ(突撃)を喰らわせた。

 ―軽い音を立てて崩れる―――かと思われたおもちゃの兵。
 しかし、足を引いたのはエンキ神の方だった。

「……なかなか歯ごたえがある」

 彼の足に傷こそないが、その立ち退いた足跡は
 とてもおもちゃ兵とは結びつかないサイズで大きく抉られている。
 その意外にも逞しい戦力を誇示するかのようだ。

「もっと普通に小さ?い部屋で、お互いこのカードで駒を召還。
 そーいうゲームのが俺は面白いかなー、なんてね?」

 挑戦的な笑みに、エンキもまた笑みで応える。

「構わん、請けよう。――ただし負ければ―、わかっているな?」

 そもそものこの突然のチェスゲームのきっかけは、『神の後継者』を賭けてのものだった。

 「神」というものには限られた寿命のようなものがあり、
 その存続が尽きるまでの間に自らの力の「後継者」を探し出さねばならない。
 水神エンキは神として長くの時を経て、その魂が褪せて来ているのだという。

 その力が消失する前に、彼はその存在を「引き継ぎ」たいのだ…と。
 『バグスペイア』たるヒューレットこそ、その後継者に相応しいとエンキ神が望んだのだ。

 ―しかし、エンキの「空間」へ呼びつけられたヒューレットの応えは否定の一言だった。
 

「いやッス」と。

 ――気の抜けるような、まるでやる気のない声で。

 神たる空間に神の意志で招致された者には、如何に悪魔バグスペイアといえど帰る術はない。
 しかし永久に帰る事が適わなくとも、ヒューレットは神の座につくことを拒否しつづけた。
 理由は、強いて言うなら『神は退屈だから』というのが妥当なところか。

 いつになっても帰ることは許されず、しかし後継者として「継ぐ」気はなく。
 そこで、呆れたエンキのほうから勝負事を持ちかけたのだ。
 『神とのチェスゲームに勝利すれば、この場から解放しよう』と。

「…負けはしないッスけどね。」

「…神の後継をここまで拒否するとはな。お前がそこまで頑固とは思わなかった」

「――悪魔の後継者になっただけでも後悔してるんでね。その上「神」なんてマジやる気ねぇんスよ」

 余裕の不遜な態度を崩す事はない。ヒューレットの表情から笑みが消えるのはこんな時だ。

 やがて不穏に空いた間を、エンキ神の一言が埋めた。

「プレイタイムだ」

 先ほどまでの異様な空虚さはない、むしろ一般的に『部屋』と呼べる大きさの、
 茶色と白の桝目が並ぶ空間。

 そこの対角線上に白と黒、分かれてエンキとヒューレットとは向き合った。

「―先行、いいッスよ」

 服のポケットへ手を入れ、まるで挑発的にエンキへ向けて顎をしゃくるヒューレット。
 
 彼の手元にあるのは、「カード」の約半分。
 
 カードはいわゆる魔法の品で、これはお互いの支配するもの――
 契約を交わした使い魔でも、あるいは支配する「現象」でも――
 を、手駒として呼び出す手伝いをしてくれる。
 いわゆる簡易魔方陣、とでも言うべきものだ。

 込められた魔力にはそれぞれ程度があり、おおまかに言うならばトランプの種類のような
 いくつかの段階がある。
 その強さに応じた手駒を、チェスの法則で駒にして勝負を競う。

 ルールは幾分複雑になったかもしれない、だが性格の単純さは変わらない。

 ――お互い、勝てばいいだけだ。

「行こう」

 エンキ神がまず、一枚目のカードを地面に置いた。

 カードの表は見ないこととなっている。
 地面に置いて具現化したものの強さからそのカードが推し量れる採寸だ。

「―――」

 甘い紅茶色の床に置かれたカードから煙が溶け出し、やがてカードが滲んで消える。

 跡に現れたのは、彼の手に携えているのとは異なる青い大剣。

「…氷結の牙、アルナム」

 剣は無気味とも思える輝きを青白く放って宙空にその刀身を浮かせ、
 「キング」たるヒューレットに切っ先を定めた。

「にゃーるほど、スペードのエース…ってトコかな。カード運、なかなか強いッスね」

 その切っ先を冷静に眺めたままで、ヒューレットは手のカードを足元へ放つ。

 途端、あたりに異様な光が満ちて部屋の空気を一変させる。

 立ち上る煙は意志を持って渦巻き、邪悪な息吹を予感させるようにエンキ神へと吹き付けた。

「でも残念ながら俺も、カード運はいいんスよ」

 彼の金色の瞳が細められ、彼はしゃがんで足元に落ちたカードを裏返す。

 Joker。

 彼に良く似た魔導師の姿が、秘密を含んだ笑みを浮かべて笑う。
 カードに立ち上る煙から現れる薄桃色の身体、邪悪な瞳。
 見上げるほどに巨体の竜が、床に影を落とすことなくやがてヒューレットの前に現れた。

「――まだあんたみたいなイイ神様は、引退するのに早いっつうことで」

 邪悪な瞳の竜までもが、カードそっくりにニッ…と笑った。
 それははたして、エンキの感じた錯覚だっただろうか?

 バグスペイア、運命を乱す者。
 この世界のJokerたる彼の、はたしてこの先の命運は。

 しかし–今この本の項を繰る貴方の前、
 館の図書室の机について、彼が変わらず平穏な昼寝をしているとするならば–。

 カード運さえ支配する、混沌の使者、秩序の使い。

 彼が二枚目のカードをめくる時、カードの中の道化師がもう一度、秘密めいた笑みを浮かべた。

Joker完